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Twitter totoro663
○2023年7月分
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このころ、コロンブスは積極的にスペイン語やラテン語などの言語や天文学・地理、そして航海術の習得に努めた。
仕事の拠点であるリスボンで地理学者・数学者・天文学者のパオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリと知り合う機会を得て、手紙の交換をしている。
当時はすでに地球球体説は一般に信じられていたが、トスカネッリはマルコ・ポーロの考えを取り入れ、大西洋を挟んだヨーロッパとアジアの距離はプトレマイオスの試算よりもずっと短いと主張していた。
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『東方見聞録』にある黄金の国・ジパングに惹かれていたコロンブスはここに西廻りでアジアに向かう計画に現実性を見出した。
また、現存する最古の地球儀を作ったマルティン・ベハイムとも交流を持ち意見を交換した説もある。
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これらの収集情報や考察を経てコロンブスは西廻り航海が可能だとする5つの理論根拠を構築した。
ラス・カサス『インディアス史』(第5章)に記載されたその内容は、
1.地球は球体であり、西に進めば東端にたどりつく。
2.地球の未知の部分はアジア東端からベルデ岬諸島以西だけになった。
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3. 2世紀のギリシア人地理学者のマリヌスはヨーロッパからアジアまでは地球の15/24に当たるという。したがって未知の領域は9/24=約1/3となる。
4. マリヌスが認識していたアジアは(当時認識されていたという意味で)現在のアジア東端までに比べれば狭い。したがって未知の領域はさらに狭くなる。
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5. 9世紀のイスラム人天文学者アルフラガヌスは経度1度=約56.6マイルと計算した。 したがって未知の領域は56.6×360/3=約6,800マイル。
しかもこれは赤道上であり北寄航路ならば距離はさらに縮まる。
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この考えの根底にはアリストテレスの地理観を引き継いだ中世キリスト教の普遍史観から、世界はヨーロッパ・アジア・アフリカの3大陸で成り立っていたという概念がある。
地球の大きさについても、北緯28度におけるカナリア諸島から日本までを実際の10,600海里に対しコロンブスは2,400海里と、非常に小さく見積もっていた。
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1484年末、コロンブスはポルトガル王ジョアン2世に航海のための援助を求めた。
王室は数学委員会(フンタ・ドス・マテマティコス)の諮問にかけて検討したが、回答は否決だった。
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ジョアン2世はコロンブスが自費で航海をするならばよいと言うのみだったが、コロンブスにはそのような資金がなく、借金さえ抱えていた。
このころ、コロンブスは妻フェリパを亡くし、1485年半ばごろ、8年間過ごしたポルトガルに別れを告げる決心をつけた。
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コロンブスはいろいろなスペイン貴族に面会する機会を得て支援を求めた。
メディナセリ公は興味を抱き、コロンブスが求めた数隻の船や食料など3,000 - 4,000ドゥカート相当の物資を準備することに合意した。
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コロンブスへの援助に同意したメディナセリ公だったが、このような計画は王室への許可を得るべきだと考えた。
1486年5月1日、メディナセリ公が紹介してコロンブスはコルドバでイサベル1世とその夫フェルナンド2世(カトリック両王)に謁見した。
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コロンブスの話にフェルナンド2世はあまり興味を持たなかったが、イサベル1世は惹きつけられた。諮問委員会が設けられ、そこで評価されることになった。
1486年だけで二度、委員会は開かれたが、コロンブスが示したアジアまでの距離が特に疑問視され、結論は持ち越された。
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また、弟バルトロメをイギリスのヘンリー7世やフランスのシャルル8世の下に差し向け、計画の宣伝をさせた。
いずれの王からも支持は得られなかったが、シャルル8世の姉の歓待を得て、バルトロメはフォンテーヌブローの宮殿に数年間滞在した。
しかしこれらの行動も実を結ばなかった。
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ここにルイス・デ・サンタンヘル(スペイン語版)が登場する。
財務長官であった彼は女王説得に乗り出し、コロンブスが提示した条件は見込める収入からすれば充分に折り合い、また必要な経費も自らが都合をつけると申し出た。
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1492年1月2日に、ムーア人の最後の拠点であったグラナダが陥落したことで、スペインに財政上の余裕ができたことをサンタンヘルは指摘した。
もともと興味を持っていたイサベル1世はこれで勢いを得てフェルナンド2世を説き伏せ、スペインはついにコロンブスの計画を承認した。
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サンタ・フェ契約
1492年4月17日、グラナダ郊外のサンタ・フェにて、コロンブスは王室と「サンタフェ契約」を締結した。
その内容は、
1.コロンブスは発見された土地の終身提督(アルーランテ)となり、この地位は相続される。
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2.コロンブスは発見された土地の副王(ピリレイ)および総督(ゴベルナドール・ヘネラール)の任に就く。 各地の統治者は3名の候補をコロンブスが推挙し、この中から選ばれる。
3.提督領から得られたすべての純益のうち10%はコロンブスの取り分とする。
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4.提督領から得られた物品の交易において生じた紛争は、コロンブスが裁判権を持つ。
5.コロンブスが今後行う航海において費用の8分の1をコロンブスが負担する場合、利益の8分の1をコロンブスの取り分とする。
というものだった。
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航海の経費は、ルイス・デ・サンタンヘルが中心となって調達された。
彼は、警察機構サンタ・エルマンダーの経理担当であったジェノヴァ人フランチェスコ・ピネリと協力して140万マラベディを、さらにアラゴン王国の国庫から35万マラベディを調達し、コロンブスに提供した。
コロンブスは25万マラベディを調達したが、これはメディナセリ公やセビリアのフィレンツェ人銀行家ベラルディなどから借金をしてかき集めたものだった。
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1492年8月3日、スペインウェルバのパロス港からインド(インディア)を目指して大西洋へ出航した。
このときの編成はキャラベル船のニーニャ号とピンタ号、ナオ船のサンタ・マリア号の3隻で総乗組員数は約90人(120人という説も)。
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いったんカナリア諸島へ寄り、大航海の準備を整えたあと、一気に西進した。
大西洋は極端に島の少ない大洋であり、船員の間には次第に不安が募っていった。当時の最新科学では地球が球体であるということはほぼ常識となっていたが、船員の間では地球を平面とする旧来の考えも根強く残っていた。
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